小説 フォレスト中小企業診断士事務所〜伴走者たちの協奏曲〜第51話
- 小池 俊介
- 12 分前
- 読了時間: 6分

第51話「数字が語る、隠された弱点」
堀田が去ったアクアヘアには、まるで嵐が過ぎ去った後のような静寂が訪れていた。駅前の喧騒とは裏腹に、店内に漂う空気は重く冷たい。相良莉子は、ソファに座り込み、堀田が置いていった書類を茫然と眺めていた。退去、あるいは賃料五倍。どちらを選んでも、アクアヘアは終わる。比嘉は、何も言えず、ただ莉子のそばに立っていた。彼もまた、自分が店のために何もできていなかったという無力感に苛まれていた。莉子が自分に当たり散らした言葉が、心に突き刺さっていた。
「どうしよう…」莉子の声は、か細く震えていた。カリスマ美容師として、ハサミを持つ手には絶対の自信があった。どんな難しい要望にも応え、お客様を最高の笑顔にしてきた。しかし、経営という、これまで目を向けようとしなかった領域では、あまりにも無知だった。堀田の冷たい目は、そんな莉子の弱点を正確に見抜いていたかのようだった。
比嘉からアクアヘアの窮状を聞いたフォレスト中小企業診断士事務所では、緊迫した空気が流れていた。小池、タカシ、エリカ、そして森所長が対策を練るため、遅くまで事務所に残っていた。
「相良さん、かなり追い詰められているようです」比嘉から受けた連絡の内容を小池が伝えた。
タカシが眉をひそめる。「城南開発のやり方は相変わらずですね。再開発を理由に、地元の小さな店を追い出すなんて」彼は、かつて担当した光永精工が信用金庫からの融資に苦戦した背景に、再開発計画やそれに伴う本部の意向が影響していたことを思い出していた。
エリカは、静かに聞いていたが、その目は怒りに燃えていた。
城南開発。地上げ。一方的な要求。その全てが、彼女の心に深い傷を残した父、渡辺木工所の倒産劇と重なったのだ。技術は一流でも、経営の知識がなければ、時代の波や巨大な力の前では無力になってしまう。父が輝きを失っていく姿、従業員を守れなかった苦悩――それらが脳裏に蘇った。相良莉子も、あの時の父と同じ顔をしていた。「あんな理不尽なことが、また繰り返されるなんて…」エリカは唇を噛み締めた。
森所長が落ち着いた声で言った。「まずは、アクアヘアさんの現状を正確に把握することだ。数字で語る必要がある」。フォレスト事務所の「伴走」支援の第一歩は、常に現状の「見える化」から始まる。
翌日、フォレスト事務所のメンバーはアクアヘアを訪れた。華やかで活気に満ちた店内は、一見すれば順調そのものに見えた。しかし、タカシが比嘉から受け取った資料、そして莉子にいくつかの質問を投げかける中で、その輝きの裏に隠された危うさが露呈し始めた。
「相良さん、失礼ですが…昨日の売上はいくらでしたか?」タカシが尋ねる。
莉子は少し考え、「えっと…たぶん、10万円くらい…かな? 詳しくは比嘉が…」と曖昧に答えた。
タカシは続けた。「では、今月の家賃は? 人件費は? 使っているシャンプーやカラー剤の原価率はどれくらいでしょう?」
莉子はますます困った顔になり、「えっと…家賃は毎月決まっているけど、正確な数字は比嘉が…他は全然分からない…」。
タカシは、無理もないという表情で比嘉に視線を向けた。比嘉が用意した資料は、断片的な数字にすぎなかった。売上の記録はあるが、経費の管理は杜撰で、月ごとの収支は全く把握できていない。まさに、タカシが信金マン時代に遭遇した、どんぶり勘定のラーメン店 や、大正精肉店の勝氏が陥っていた状況 と同じだ。
事務所に戻ったフォレストのメンバーは、集めた断片的な情報をもとに、アクアヘアの財務状況を「見える化」する作業に取り掛かった。タカシがスプレッドシートを開き、一つずつ数字を入力していく。
「売上は確かに伸びている…SNSの効果もあるんでしょうね」タカシが呟く。
しかし、数字を整理していくにつれて、タカシの表情は曇っていった。「でも、ちょっと待ってください…売上は伸びていますが、それ以上に経費がかかっている。材料費、広告宣伝費と…やはり人件費は業界平均より実態は悪いのかもしれません。」
小池が冷静に問う。「限界利益率は?」
タカシは唸る。「計算してみましたが…かなり低いですね。それに、運転資金がほとんどない。売上は入ってきても、すぐに支払いに消えている状態です」。
その数字を突きつけられた莉子は、愕然とした。「うそ…あんなに忙しいのに…なんで…?」
タカシは、ホワイトボードに簡易的な損益計算書と貸借対照表を書き出した。
「これが、アクアヘアさんの『成績表』と『健康診断書』です」タカシは、大正精肉店の勝氏に教えた時と同じように、分かりやすい言葉を選んだ。
「見た目の売上は立派ですが、中身は驚くほど脆弱です。どこにどれだけお金がかかっているのか、利益はどこから生まれているのかが全く見えていない」。
莉子は、目の前の数字が信じられなかった。自分の技術には絶対の自信があった。お客様は自分のカットを求め、予約は常に埋まっている。それなのに、店の経営は火の車寸前だった。カリスマ美容師という輝かしい側面 の裏に、これほどまでに脆弱な経営実態が隠されていたのだ。プライドが傷つき、顔が強張る。
エリカは、莉子の気持ちを察していた。彼女の父も、技術者としてのプライドは高かったが、数字との向き合い方を避けていた。そして、そのことが最終的に店を破綻へと追い込んだ。
「相良さん…でも、希望はあります」エリカが口を開いた。彼女は、自身の父の経験から、技術だけでは企業は生き残れないが、技術が経営と結びつけば大きな力になることを学んでいた。
「相良さんの技術は本物です。そして、多くの人がSNSで相良さんの技術に注目している」。エリカは、タブレットを取り出し、莉子のSNSアカウントを開いた。多くのフォロワー、高いエンゲージメント。
「これです。この影響力こそが、アクアヘアさんのもう一つの『輝き』です。これを経営に活かせれば、必ずこの状況を打開できます」。
エリカは、莉子のカリスマ性 とSNSでの発信力 を最大限に活かせる戦略の可能性を探り始めた。ビフォーアフター写真の魅せ方、技術へのこだわりを伝えるストーリー、お客様との交流…SNSを単なる集客ツールではなく、ブランド力を高めるためのプラットフォームとして活用する。
小池は、そんなエリカの言葉に頷いた。アクアヘアの真の価値は、莉子の技術と、共に働くスタッフたちの技術力にあると見抜いていた。この「職人技術」を、どのように経営の軸に据えるか。どんぶり勘定から脱却し、数字に基づいた意思決定ができるようになること。そして、技術という強みを、経営にどう結びつけるか。それが、フォレスト事務所が伴走すべき道筋だった。
「まずは、数字を味方につけること。そして、皆さんの技術という強みを、しっかりと経営に繋げること」小池が言った。「そのお手伝いを、私たちに一緒にやらせてください」。
莉子は、フォレスト事務所のメンバーの真剣な目を見た。タカシの突きつけた数字は痛かった。しかし、エリカが指差したSNSの画面には、確かに希望の光が映っていた。比嘉は、フォレスト事務所に相談したことが正しかったと確信していた。
フォレスト事務所によるアクアヘアの本格的な伴走支援が始まった。
それは、カリスマ美容師が初めて数字と向き合う苦闘であり、SNSという現代的なツールが伝統的な経営課題にどう立ち向かうかの試みでもあった。そして、水面下では、城南開発の堀が、アクアヘアの新たな動きを冷徹に注視し始めていた。地域の有力企業からの挑戦状 に対する、アクアヘアとフォレスト事務所の応戦が、今、始まったのだ。
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