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小説 フォレスト中小企業診断士事務所〜伴走者たちの協奏曲〜第45話



第45話「揺れる田所」

 田所支店長の一日は、経済新聞と地元新聞に目を通すところから始まる。地元紙に目を落とすと、地元の有力企業の代表者が県内の複数の地域で再開発事業を仕掛けると息巻く記事が紙面を賑わせている。田所は某有名私立大学出身で、手堅い業務が評価され、誰もが一目置く存在であった。支店長室で書類を広げ、融資先の一覧をチェックしながら、万が一の貸倒が起きないよう慎重に見極める。彼は昔からそのリスク管理能力が評価され、信金内でもその堅実さを買われてきた。


 支店の業務が落ち着く夕刻、田所は書類の山に埋もれながら、デスクの傍らに飾られた古い写真にふと視線をやる。そこには、まだ駆け出しだった小池も写っていた。当時の田所も今ほど役職が高くなく、“融資先の管理一筋”ではあったが、若い小池の純粋な想いにはどこか惹かれるものがあった。企業を救いたいと目を輝かせる小池の姿勢に、「リスクは当然考えるが、彼のような支援にも意義はあるのでは」と、密かに思っていた。

 ところが今の田所は、かつてのように心のどこかで共感していても、表立って援助の手を差し伸べる余裕がない。融資を決めようにも、信用金庫本部の判断を無視して動くわけにはいかない。特に最近、当地で計画されている再開発について、本部から慎重な判断をするようにと指示が飛んでおり、様々な関係者の利権が絡む微妙な問題を抱えることとなっている。


 田所の支店近隣は、これまで目立った開発案件は少なかった。しかし、もし再開発が現実味を帯びれば、開発に関係する企業への融資規模が大きくなる一方で、地場で長らく経営を続けてきた小規模事業者が厳しい状況に立たされる可能性もあり、リスクも急増しかねない。「本部が再開発を重視している以上、どんな融資案件が優先されるのか――」と考えを巡らせると、今の支店の小さな案件が通りにくくなっている可能性があるとも思えてくる。

「再開発が動けば、開発にかかるプロジェクトが優先されるだろう。支店の融資方針も大きく変わり得る。そんなときに地場の小規模事業者向けの小口融資を積み上げていると、本部から厳しい目を向けられるんじゃないか……」


 田所はため息をつきながら、光永精工の融資案件資料を手に取る。先日、光永社長が「長尺旋盤加工を軸にした新規受注を狙う」と意気込んでいたが、まだ単発の見込みに過ぎない。万が一うまくいかずに貸倒れとなれば支店としての評価は下がるだろう。

ただ、田所にはそれ以上にもう一つ気になっていることがあった。


光永精工の工場は再開発を仕掛ける城南開発の所有地で、隣地も貸工場であったが、城南開発の白波社長により半ば強引に立ち退きになった経緯がある。「城南開発はあの辺りを再開発の計画地に考えているのかもしれない。そうすると、光永精工への現時点での融資はより慎重にならざるを得ない…。」

そう考えると、手を伸ばして助けたい気持ちはあっても、リスクを冒す勇気は簡単に湧いてこない。本部から発せられる言葉には「貸倒は絶対に出すな」という強い意図が感じられるとともに、再開発のチャンスを逃すような行動は許されないという空気がある。


 デスクに残る書類を整理していると、内線が鳴る。部下の声が少し緊張している。「支店長、申し訳ありませんが、光永精工さんから再度面談の要望がありまして……どういたしましょうか?」

「……そうか。時間を作ろう」

 田所は手元のスケジュール帳を見ながら、空いている時間を探す。だが内心は複雑だ。会ったところで、簡単に進む話ではない。部下に任せたり、いっそ断ってしまえば楽なのに、自分からそれができずにいる。


 ある日の夕方、支店長室に光永精工の社長・光永が入ってくる。珍しくスーツ姿で、今日のために身だしなみを整えたのだろう。光永はファイルを胸に抱え、頭を下げるようにして話し始める。

「先日、小池さんたちのサポートもありで営業活動を始めたら、少しずつですが反応がありました。長尺旋盤でできる案件を試しに相談したいという企業も……ですから、その、運転資金の件を再度……」


 光永の声には確かな期待が含まれていたが、田所はあくまで冷静を装っている。「承知しています。ですが、まだ単発の見込みですよね。どの程度確実に売上が立つかは、数字として確認できないと判断が難しい。これまで事業拡大のチャンスはおありだったと思いますが、それに向けたお取り組みには御社は消極的であったと感じています。」


 光永は「そんなこと言われても、うちはもう資金がもたない……」と悔しそうに顔を歪める。田所も彼の苦悩を理解できないわけではないが、立場上、軽々しく「やりましょう」とは言えない。



 静まり返る室内。光永は俯き、「わかりました。もう少し成果が出せるように頑張ります」とだけ言ってドアを閉めた。閉まったドアを前に、田所は微かに唇を噛む。頭では仕方ないと理解していても、心のどこかが疼くように痛む。

「お前ならどうする……」

 誰もいない室内で、田所はかつての部下の名前を呟く。小池は当時から企業の可能性を探り、「リスクだけを見ていては地域が廃れる」と熱弁していた。田所は若き日の小池の純粋さを好ましく思う一方、「現実はそんなに甘くない」と自分のリスク管理主義を貫いてきた。本部の意向と再開発を巡る思惑が絡む中で、さらに慎重になっているのも事実。小口の加工会社への融資なんて、再開発プロジェクトに比べれば微々たる金額かもしれない。


「結局、俺は理事の顔色をうかがい続けるしかないのか……」

ため息をつきながら、田所はパソコン画面を立ち上げる。そこには支店で扱う融資案件の一覧が表示されている。最近、明らかに小口の案件が通りにくくなっていると感じられる。再開発案件に備えるためか、あるいは本部が余計なリスクを避けようとしているのか――いずれにせよ、支店が自由に動ける余地は狭まっているようだ。


昔の田所なら、リスク管理しつつも企業の可能性を信じ、工夫して融資を通す方法を考えたかもしれない。しかし今は、そんな余裕を失いつつある。肩書きが上がるほど、責任が増し、さらに「組織の歯車」として動く必要性が生じる。田所は小さく首を振って、画面を閉じるしかなかった。日が落ち、支店内の照明が落とされる頃、田所は支店長室で一人書類の整理を続ける。かつての写真が視界に入るたびに、「俺はこのままでいいのか?」という問いが頭をよぎる。小池が伴走で企業を支えているという話を地元の商工会議所や取引先企業から耳にするたび、心がざわつく。自分だって、企業に寄り添っていた時代がある。今はどうしてもそれができない現実と、昔からのリスク管理主義がぶつかり合い、結局は保身に甘んじる形になっている。


「仕方ないよな、そういう仕事のそういう立場なんだから……」

 そう自分に言い聞かせる田所。リスク回避に徹するのが自分の正しい生き方だと、自らを納得させるしかない。再開発プロジェクトが動くなら、尚更下手な小口融資で支店評価を落とすわけにはいかない――そう思うほど、小池の眩しさが胸に刺さる。


 誰もいない支店フロアを後にし、鍵を閉めて外に出る頃には、田所の心はさらに重く沈んでいた。現在の部下である若手職員が歯車のように業務をこなす姿を見るたびに「本当にこれでいいのか」という問いは大きくなり続ける。だが、それでも彼は次の日にも同じように本部理事の意向を確認し、再開発絡みの噂を探りながら、「リスクを抑えろ」という声に従って動くのだろうと覚悟している。

 夜風がひんやりと肌を刺す中、田所は支店の正面扉を施錠すると足早に駅へ向かう。街灯に照らされる小さな商店街は人影もまばらで、この町が再開発でどのように変わるのか、想像もつかない。遠く離れたどこかで、小池は光永精工を救おうと奔走している。その姿を思い浮かべるほどに、田所の胸は締めつけられた。


「昔からリスクばかり考えてきた。でも、企業の可能性があるならば、それを伸ばすのが本当の信用金庫の役割じゃないのか。」


 小さくつぶやいても、誰の耳にも届かない夜の静寂があるだけ。結局、田所は自身の矛盾と葛藤を抱えたまま、一人家路につく。支店長としての責務を全うすればいいのか、それとも企業を信じてみるべきか――その答えはまだ見つからないまま、彼は暗い道を歩いていく。

 
 
 

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