小説 フォレスト中小企業診断士事務所~伴走者たちの協奏曲~第54話
- 小池 俊介
- 7月1日
- 読了時間: 6分

第54話: 技術者(スタッフ)たちの声
城南開発の堀田が残していった冷酷な挑戦状は、アクアヘアに重くのしかかっていた。莉子の顔から再び輝きが失われ、比嘉も疲弊の色を隠せない。フォレスト中小企業診断士事務所の面々は、アクアヘアを内部から強固にする必要性を改めて痛感していた。堀田の圧力に対抗するには、単なる数字の改善だけでは不十分だ。店の真の価値、すなわち莉子とスタッフたちの「技術力」を経営の軸に据え、彼らのロイヤリティを高めることが急務だった。
フォレスト事務所の会議室で、小池はホワイトボードにアクアヘアの組織図を書き出した。そこには、オーナーである莉子と、彼女を支える比嘉、そして数名のスタイリストとアシスタントの顔が並ぶ。
「アクアヘアの最大の資産は、相良さん、あなた個人のカリスマ性だけではありません」小池は莉子に語りかけた。「ここにいる全ての技術者、スタッフの皆さんが、アクアヘアの価値を支える根幹です。彼らの高い技術と、お客様からの信頼こそが、城南開発の圧力に対抗しうる『店の価値』を生み出しているんです」
莉子は俯いたままだった。これまでの彼女は、自分の技術さえあれば店は回ると信じ、スタッフのモチベーションや定着について深く考えることは少なかった。もちろん、日々の業務で感謝の言葉は伝えていたが、それは感情的なものであり、経営的な視点とはかけ離れていた。
タカシが数字の資料を広げた。「アクアヘアさんの人件費は、同業他社と比較しても決して低いわけではありません。そして、離職率が高い傾向にあります。これは、スタッフが働きがいを感じられず、成長の機会が少ないと感じている可能性を示唆しています」
莉子はハッとしたように顔を上げた。確かに、最近はアシスタントが辞めていくことも少なくなかった。「みんな、技術を磨きたいって言って、もっと大きいサロンに移っていくんです…」莉子の声は、寂しそうに響いた。
エリカは、そんな莉子の気持ちを察しつつ、具体的な提案を始めた。「相良さん、SNSでのお客様からのコメント、見てください。『アクアヘアの皆さん、いつも本当にありがとうございます』『担当の山名さんのおかげで、アクアヘアさんに行った後はいつも友人に褒められます』…相良さんだけでなく、スタッフの皆さん一人ひとりに、お客様からの感謝の声が届いています。これこそが、彼らの技術と貢献の証です」
「これを活かしましょう」小池が言葉を継いだ。「技術者のロイヤリティを高め、流出を防ぐためには、彼らの『貢献』を正当に評価し、成長を支援する仕組みを経営に組み込む必要があります」
比嘉が身を乗り出した。「具体的には、どのようなことでしょうか?」
小池は、ホワイトボードにいくつかの項目を書き出した。
「まず、評価制度の見直しです。個人の売上だけでなく、技術力向上への取り組み、顧客からのフィードバック、チームへの貢献度などを多角的に評価する仕組みを導入します。次に、インセンティブ導入。これは単なる歩合給だけでなく、技術力や貢献度に応じたボーナスや手当を検討します。そして、教育体制の強化。定期的な技術研修や、外部セミナーへの参加費用補助など、スタッフの成長を会社が支援する姿勢を見せることです」
莉子は、戸惑いの表情を浮かべた。これまでのサロンでは、技術は見て盗むもの、という風潮が強かった。教育体制など、まともに考えたこともなかったのだ。
「でも…どうやって?」莉子の声は、自信なさげに震えた。
「比嘉さん、協力をお願いできますか?」小池は比嘉に目を向けた。「莉子さんのカリスマ性だけでは、限界があります。組織として強くなるためには、莉子さんの想いをスタッフに伝え、彼らが自律的に動けるような環境を比嘉さんが作っていくことが重要です」
比嘉は深く頷いた。「もちろんです。莉子を支えるためなら、何でもやります」
翌日から、アクアヘアでは、フォレスト事務所の支援のもと、スタッフとの対話が始まった。比嘉は、まず莉子とスタッフ全員を集め、堀田からの立ち退き要求と、店の現状を包み隠さず話した。
「正直に言います。お店は今、大きな危機に直面しています。城南開発から、出ていけと言われている。でも、私たちはここで店を続けたい。お客様にアクアヘアを必要としてもらっている限り、諦めたくない」比嘉の声は、震えながらも真剣だった。「そのためには、皆さんの力が必要です。どうか、私たちに力を貸してください」
スタッフたちは、比嘉の言葉に驚きを隠せない。オーナーの莉子さえも知らなかった店の内情、そして迫りくる巨大な圧力に、皆が呆然としていた。しかし、比嘉の必死な訴えは、彼らの心に響いた。
「私たち、何かできることありますか?」一人のスタイリストが、おそるおそる手を上げた。
それをきっかけに、スタッフたちから次々と意見が出始めた。
「私は、もっとカラーの技術を磨きたいです。お客様に、もっと喜んでもらえるように」
「アシスタントの子たちにも、もっと丁寧に教える時間を確保したいです。すぐに辞めてしまうのは、教える側にも問題があるのかもしれない」
「お店の備品、もっと安く仕入れられるところ、探してみましょうか?」
比嘉は、スタッフたちの予想以上の反応に胸が熱くなった。これまで経営に無関心だったスタッフたちが、店の危機を自分たちの問題として捉え始め、主体的に動き出そうとしている。その姿を見て、莉子の目にも光が戻ってきた。
小池、タカシ、エリカは、その様子を温かく見守っていた。特にエリカは、莉子とスタッフたちの間に芽生え始めた連帯感に、胸が熱くなるのを感じていた。彼女の父も、もしもっと早く従業員に店の現状を伝え、共に立ち向かうことができていれば、渡辺木工所の運命は変わっていたかもしれない。あの時の無念が、今、莉子たちの力になる。そう信じて、エリカはスタッフたちが気軽に参加できるミーティングの場を設け、評価制度やインセンティブ、教育体制に関する意見を吸い上げるための資料作成に奔走した。
スタッフたちのロイヤリティを高めるための取り組みは、地道な作業だった。新しい評価項目を一つずつ設定し、スタッフ一人ひとりの意見を聞きながら調整を進める。インセンティブ制度も、導入後の効果をシミュレーションしながら、最適な形を探っていく。教育体制の強化では、莉子自身が講師となり、自身の持つ「アクアヘア」の技術を惜しみなくスタッフに伝授する時間を設けた。莉子の情熱的な指導は、スタッフたちの技術力向上に直結し、彼らの中に「自分たちは、この店でしか得られない特別な技術を学んでいる」という誇りを育んでいった。
この取り組みは、店の雰囲気にも大きな変化をもたらした。スタッフ同士のコミュニケーションが活発になり、互いに協力し合う意識が高まった。お客様も、以前にも増して明るくなった店内の雰囲気に気づき、笑顔でスタッフに話しかけるようになった。アクアヘアは、単なる「カリスマ美容師の店」から、「最高の技術とチームワークで、お客様の輝きを引き出すサロン」へと、その価値を進化させていた。
水面下では、城南開発の堀田が、アクアヘアの新たな動きを注視していた。アクアヘアの結束力が強まっていることに気づき、焦りの色を見せ始める。彼らは、小さな美容室が、これほどまでに組織的に抵抗してくるとは想定していなかったのだ。
堀田は部下に命じ、アクアヘアのSNSに上がっている情報の調査を開始した。
---
Comments