小説 フォレスト中小企業診断士事務所~伴走者たちの協奏曲~第53話
- 小池 俊介
- 6月27日
- 読了時間: 7分
更新日:7月1日

第53話: 堀田の冷徹と、再開発の影
アクアヘアの店内には、以前にも増して活気と笑顔が満ち溢れていた。数値にもとづく小さな改善活動やSNSによる情報発信が実を結び、店の経営は着実に上向いていた。莉子の顔には、以前のような疲弊した表情の代わりに、充実感と自信が戻ってきている。彼女のハサミ捌きは、以前にも増して輝きを放っているかのようだった。
店の奥では、比嘉が慣れない手つきでスプレッドシートとにらめっこしていた。タカシから教わった簡易的な損益計算書と貸借対照表を日々更新し、材料費や人件費などの細かな数字を追う作業は、想像以上に骨が折れる。それでも、数字が示す確かな改善の兆しを見るたびに、彼の頬は緩んだ。莉子も時折、比嘉の隣に座って数字の変化に目を凝らすようになった。「あれ、今月はカラー剤の仕入れ、少し減らせたんだね!」と、小さな発見にも喜びを感じる。どんぶり勘定だった経営に、ようやく光が差し込み始めていた。
フォレスト中小企業診断士事務所でも、アクアヘアの進捗は大きな話題となっていた。
「相良さんのSNSの影響力は想像以上ですね」エリカが興奮気味に報告する。「リール動画の再生回数がとんでもないことになっていて、『こんな美容室が地元にあったなんて』とか、『遠方からでも行ってみたい』っていうコメントが殺到してるんです!」
タカシも頷く。「数字もそれに伴って伸びてきています。特に新規の来店予約が目立って増えてきましたし、客単価も徐々に上がってきていますね。コスト削減の意識も芽生えてきて、少しずつですが利益率も改善傾向にあります」
小池は穏やかに微笑みながらも、ふと窓の外に目をやった。駅前のロータリーでは、何台もの重機が動き回り、新しいビルの基礎工事が進められている。再開発の波は、確実にこの街に押し寄せているのだ。
「順調なのは何よりだが…」小池の声には、わずかに懸念が混じっていた。「城南開発が、この状況を黙って見ているとは思えない」
小池の予感は的中した。
数日後、アクアヘアに再び堀田が姿を現した。しかし、以前のような唐突な訪問ではなかった。今回は、城南開発の顧問弁護士と、いかにも強面な男性を二人連れての来訪だった。その威圧的な雰囲気に、店内の活気は一瞬にして凍り付く。
「相良様、アクアヘア様の経営が好転していることは、弊社も承知しております」堀田は、感情のこもらない声で淡々と話し始めた。「しかし、駅前再開発計画は着実に進行しております。つきましては、改めて年内での退去をお願いしたく参りました」
莉子は、堀田の言葉に強く反発した。「なぜですか!私たちは、この場所で頑張って、やっとお店が軌道に乗り始めたところです。それに、お客様もここを必要としています!」
堀田は冷酷な笑みを浮かべた。「お客様が何を必要としているか、それは私どもの知るところではありません。私どもが求めるのは、計画通りの再開発であり、それに伴う土地の効率的な利用です。貴店が移転することで、より広範囲の地域に貢献できるとも考えられますが?」
顧問弁護士がすかさず書類を差し出す。「こちらは、既存の賃貸借契約の解除と、それに伴う補償に関する最終提案書です。この内容で合意いただければ、迅速に手続きを進めさせていただきます」
そこに書かれていた補償額は、店の移転費用としては到底足りない、あまりにも一方的なものだった。しかも、法的な専門用語が羅列されており、莉子には理解不能な内容だ。
「こんなの、一方的すぎる!」比嘉が思わず声を荒げた。「私たちは、ここで店を続けていきたいんです!なぜ、私たちの意思を無視するんですか!」
すると、強面な男性の一人が一歩前に出た。彼は何も言わないが、その眼差しは明らかに威嚇的で、比嘉の言葉を遮るかのように、無言の圧力をかけてくる。莉子も、その雰囲気にたじろぎ、言葉を失った。
堀田は、そんな二人の様子を冷ややかに見つめながら、さらに畳み掛ける。「ご抵抗なされても、最終的にこの土地は再開発計画に組み込まれます。訴訟となれば、貴店にとっても不利益しかございません。感情論では、何も解決しませんよ」
その言葉は、まさに莉子の経営知識の欠如を突くものだった。彼女には、法的な知識も、このような圧力に抗う術もなかった。
堀田たちが去った後、アクアヘアは再び重苦しい空気に包まれた。莉子は、震える手で堀田が置いていった書類を握りしめ、悔しさに唇を噛み締めた。比嘉も、自分の無力さに打ちひしがれ、何もできないまま立ち尽くしていた。
この窮状を比嘉から聞いたフォレスト事務所では、重苦しい空気が流れていた。
「許せない!こんなことって…。」エリカは、怒りに声を震わせた。彼女の脳裏には、父の渡辺木工所が倒産に追い込まれた時の苦い記憶が鮮明に蘇っていた。あの時も、法律や契約という名目で、父は為す術もなく追い詰められていった。技術があっても、経営の知識がなければ、巨大な力の前に屈するしかないのか。莉子の、輝きを失いかけた表情が、あの時の父の顔と重なって見えた。
「あんな理不尽なことがあっていいはずがない!」エリカは、拳を強く握りしめた。
小池は、エリカの怒りを理解しつつも、冷静に状況を分析していた。堀田の今回の手口は、明らかにアクアヘアのSNS戦略の成功と、業況改善の兆しを察知した上でのものだろう。
「堀田は、アクアヘアが『動いている』ことに気づいたんだ」小池が呟く。「だからこそ、早期に潰しにかかろうとしている」
タカシも眉間に皺を寄せた。「しかも、顧問弁護士まで連れてくるあたり、本気で法的な圧力をかけてきている。これは単なる地上げの範疇を超えている可能性が高い」
森所長が静かに口を開いた。「城南開発の目的は、アクアヘアだけではない。駅前エリア全体の再開発、それが本丸だろう」
その言葉に、小池は頷いた。光永精工の支援を通じて、田所支店長が再開発について言及していたことを思い出す。田所が光永精工融資に難色を示した背景には、金融機関と再開発の利権が絡んでいた可能性がある。
「この再開発計画には、我々が関わってきた他の支援先も無関係ではないかもしれません」小池は、慎重に言葉を選んだ。
「地元の有力企業が次々と巻き込まれ、何らかの形で影響を受けている可能性がある。」
エリカは、パソコンを広げ、城南開発に関する情報を検索し始めた。過去のニュース記事、企業のプレスリリース、地域住民のSNS投稿…断片的な情報をつなぎ合わせるうちに、彼女の目に留まったのは、城南開発が過去に手掛けた再開発プロジェクトに関する、いくつかの不穏な記事だった。強引な立ち退き、不透明な資金の流れ、そして、地域住民からの反発…どれもが、アクアヘアに起きていることと酷似していた。
「この再開発計画、もっと根が深いかもしれません」エリカが、眉をひそめて呟いた。「まるで、この街全体を支配しようとしているかのようです」
タカシが、財務の視点から意見を述べる。「堀田の狙いは、莉子さんの技術力やSNSの影響力を恐れているというよりも、単に一等地にあるアクアヘアが再開発の邪魔になっている、という側面が大きいでしょう。交渉を長引かせれば、それだけ計画のコストが増大しますから」
「そうかもしれない」小池が応じる。「だが、莉子さんの持つSNSの影響力が、彼らが想定している以上に大きくなっている可能性もある。世論を味方につけられる力は、彼らにとっては厄介だろう」
森所長は、腕を組みながら言った。「いずれにせよ、アクアヘアの経営改善は急務だ。そして、堀田からの圧力に対抗するための戦略も必要になる。法的な側面は弁護士に任せるとして、我々は経営の面から、アクアヘアを内部から強固にする必要がある」
「はい!」エリカは力強く答えた。父の時のような悲劇を、二度と繰り返させない。その固い決意が、彼女の瞳に宿っていた。
フォレスト中小企業診断士事務所は、カリスマ美容師・相良莉子の輝きを守るため、そしてアクアヘアを巨大なデベロッパーの圧力から守るため、新たな戦いに挑むことを決意した。それは、一美容室の問題を超え、街の未来、そして権力と世論の対立を巡る戦いの序章となる。莉子の持つSNSの影響力、タカシが指導する経営数字の可視化そして、小池が着目する次の一手…それら全ての要素が、この戦いの鍵を握ることになるだろう。堀田の冷徹な手口と、その背後にある巨大な影に、フォレスト事務所はどのように立ち向かっていくのか。戦いの火蓋は、今、切って落とされた。
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